金型デザイナー物語 プロフィール

はじめに、金型と聞いてどのようなイメージが浮かぶでしょうか?

最近では工場の裏側に密着したようなテレビ番組も増え、金型を生産しているような場面や金型を使い製品が出来上がっていくシーンを目にする機会も増えました。

金型は、車や家電製品などの部品だけでなく、プラスチック製品やゴム製品などあらゆる製品に使われ、ものづくりの基盤となっています。

現在私はこの金型デザイナーとして多くのご依頼を頂いておりますが、金型の世界に惹かれるまでや、工場で金型を学び、プロとなっていくまでには紆余曲折がありました。

そんな、ここに来るまでの道のりを今日はお話したいと思います。

学生時代

将来的に金型の世界へと惹かれていく私ですが、思えば小さなころから機械が好きでした。
その中でも特に戦車や戦闘機が好きで、実家近くに予科練平和記念館があったことから、よく通っていたのを覚えています。

予科練とは海軍飛行予科練習生の略で、航空機の搭乗員を育成する施設でした。
まだ14.5歳の、自分とたいして変わらない少年たちが、将来は特攻隊となるべく指導を受けた予科練。

その訓練生の生活や、家族にあてた手紙、戦争の悲惨さは私の心に大きな影響を与えました。
自分の甘さや、当時の少年たちの強さに感銘を受け、作文を書いた思い出があります。

平和な時代に生きている私が人生を無駄にしてはもったいない、とも感じました。

そこで、私は陸上自衛隊の少年工科学校を目指します。
この頃の私は整備士になりたいと思っていたからです。
整備士のたまごとしてお給料を得ながら、勉強もできるこの少年工科学校は、私にとって理想的な環境だったのです。

しかし、先生からは無理だと冷たい言葉を投げかれられました。
それほどに試験が難しい学校だったからです。

それでも私は負けませんでした。
がむしゃらに勉強し、見事に合格。
この時ほど嬉しかったことはありません。
やればできる、自分の力で成し遂げたことが何よりも誇りでした。

こうして入学した少年工科学校では厳しい生活が待っていました。
朝は毎朝6時に起き、上半身裸で乾布摩擦、そして3キロのマラソンが待っています。
授業はその後8時から、午前は普通の高校の授業を受け、午後からは専門的なことを学びます。

とにかく一日が目まぐるしく、休む暇もありません。
上下関係は絶対で、先輩や先生のきつい指導耐える日々。
そんな生活で身が持たず、体力的にも学力的にも限界を迎えた私は2年の終わりに赤点を取り、とうとう留年してしまいます。

そこで、親と相談した結果、少年工科学校を辞めることになりました。
成し遂げられなかったという悲しい気持ちよりも、この時はやっと解放された、というような思いでした。

その後、私は定時制高校へと転入します。
定時制高校は働いている生徒のため、午後5時から授業が始まります。

私も皆と同じように仕事を始めました。
憧れていた自動車整備工場で時給350円を貰いアルバイトをしながら、片道40分をかけて自転車で通学する生活のはじまりです。
とはいえ、整備工場といっても実際の仕事は洗車が主なものでした。

そこで、他の仕事も経験しようとガソリンスタンドでのアルバイトとを経て、工場でプラスチック成形のオペレーターを始めます。
これが金型を使った製品との初めての出会いでした。

24時間稼働している工場で2交代のシフトに就き、バリ取りなどを行いながら、工場での作業へ次第に興味を持っていったのです。

金型工場時代

そうして高校を卒業した私は、このアルバイトの縁もあり、バイト先の工場でそのまま正社員として雇用されることになりました。
それと同時に単純作業ではなく、技術が必要な仕事を任されることになります。

それが「金型」にかかわる仕事でした。

この工場は大手部品メーカーの第一次サプライヤーです。
品質について厳しくチェックされる分だけやりがいも同じくらいありました。

金型は金型メーカーに発注をします。
しかし、どのような金型が必要なのか、図面を自分で読み解いたり、担当者とやりとりしたりと勉強することが多く、金型に触れれば触れるほど、奥の深い世界へと惹き込まれていきます。

金型メーカーの現場を実際に訪れて、現場を見る機会があったことも私にとっては大きな経験でした。
いつしか私は自分で金型を作ってみたい、そう思うようになっていきました。

私が働いていた会社ではプラスチック製品を主に扱っていました。
プラスチック製品は高温でドロドロの樹脂を金型へと流し込むことで、成形していきます。

つまり、プラ金型は繊細で品質がとにかく問われるものでした。

ところが、現場で金型が壊れてしまうことも実際には多々あります。
そんな時には自分たちで修理することができませんから、トラックを手配しメーカーで修理してもらう必要があり、不具合が出るたびに大変な手間がかかる中での作業が続いていました。

金型を修理している間、当然納品は滞りますし、会社として注文に対応できないということは、企業価値を下げてしまうことにつながります。

そこで、当時の工場長が動きました。
金型部門を立ち上げ、自社で金型の修理や改造をしていこうと決めたのです。

そして、これが転機でした。
工場長はその金型部門立ち上げのために、外で修業をしてくるようにと私を指名してくれたのです。

金型についてもっと勉強したいと思っていた私にとって、これほど嬉しいことはありません。
いつも優しく、かわいがってくれた工場長に感謝をしながら、私は金型の世界へと飛び出しました。

私が勉強に派遣されたのは、金型メーカーでした。
一口に金型製作といっても、一つの金型を作るために様々な機械を駆使して作り上げていきます。
スライス、旋盤、研磨機などの汎用機械から、NC制御のフライス、放電加工機、ワイヤー放電加工機など、
ひと通りの加工方法を習得後、図面を見ながら加工をすることを3年間かけて覚えていきました。

ところが、いくら機械についての技術を得ても、それだけではうまくいきません。
設計を学ぶ必要がある、そう感じた私は次に設計事務所の門を叩き、2年の修業をしました。
そうして金型を自分の力で作り上げるだけの知識や技術を習得すると、5年ぶりに成形工場へと帰還したのです。

かくして、私の勤める工場に金型部門が立ち上がりました。
金型部門が出来たことで、会社にとってこれまで問題となっていた修理などを行うことができ、
成形生産計画に大きく寄与しました。

しかしながら、初期の設備投資として1億5千万もの費用が必要だったことです。

それでも、私以外にも2人の人材を入れてもらい、3人体制で仕事に臨みました。
金型部門が立ち上がってから3年後には通常レベルの新規金型を製作することができるようになったものの、
社内では採算が合わないと役員会で何度も問題となっていました。

それでも、金型部門の必要性を説明し、5年後には10人規模となります。
しかし、ここが、一番のピークでした。

私が部門を管理しながら設計を担当し、新規金型の製作や、修理を行っていたのですが、
それだけでは10人分の人件費を賄えるはずもなく、赤字の続く日々。
金型部門の人間は一人減り、二人減り、最終的には修理に必要な最低人数だけがいればいいと2人だけを残し、
他の人間は別の部署へと移ることになりました。

その頃の私は、金型にかかわることなら何でもやっていました。
海外での金型製作主になっていたこともあり、発注から導入までを任される中で韓国や中国を何十往復もし、現地へと足を運びます。

海外での金型製作の決め手はやはりコストが安いという部分でした。

しかし、実際に仕上がってきた金型を見て私はびっくりします。
それは図面通りでないだけでなく、本来なら調整が必要な部分に無造作に新聞紙が詰められているなど、ボロボロと言わざるを得ない低品質の金型が届くのです。

そうなると、金型の製作を覚えた私が、成形・量産レベルになるまでチューニングしなくてはなりません。

夜を徹しての金型の改造や修正は連日続き、機械の前にはまるでボロ雑巾のような私がいました。

クオリティの上がった製品をみて、顧客からの反応は上々でしたが、私だけに大きな負担がかかること、そして家族と過ごす時間すら失われてしまったことで、もう精神的に限界でした。

40歳。
再就職が厳しい年齢であることが重々承知していましたが、私は一つの決断をします。
退職届を出すと、ようやく休息の時間を得たのです。

設計事務所時代

40歳の私の就職活動が始まりました。
けれど、精神的に疲弊し過ぎた私は、家族を食べさせていけるのなら、どんな仕事でもいいと投げやりな状態でした。

そんな私に声をかけてくれたのが、いつも親身に話を聞いてくれ、かわいがってくれたあの工場長でした。
そして、工場長が修業してこいと言ってくれた時にお世話になった設計事務所で再び働くことになったのです。

仕事の内容は分かっていますし、私も当時よりたくさんの経験を積んでいました。

どんな仕事でもいいと口では言っていましたが、再び金型に触れられることはやはり嬉しいものです。
こうして新たな気持ちで門を叩いた設計事務所では、貴重な体験を多くしました。

第一に、この設計事務所では上場企業や名前を聞けば誰もが頷くような有名メーカーの仕事がたくさんあったのです。
その内容は多岐にわたり、精密機器や、自動車、家電など様々なジャンルの金型エンジニアリングに携わることができました。

大手からの注文ですからミスや不良品は許されません。
私は、一から学びなおすつもりで技術を磨きあげ、これまで以上に精度の高い製品を作り上げることができるようになっていきました。

さらに、営業活動や、事務所を運営していくために必要なことも同時に学ぶことができました。

そうして年数を重ねていくうちに、私の中にある一つの思いが湧きあがります。

独立したい。
自分の手で、お客さんが喜んでくれる商品を一から作り上げてみたい。

思いを口にすることで、決意が固まっていきます。

そうして設計事務所入社から10年が経った頃、向上した技術力と経営についてのノウハウを手に、とうとう私は事務所を立ち上げたのです。

独立時代

付き合いのあったお客さんは私の腕や人間性を信頼してくれていたのでしょう。
独立してすぐに、いくつかの仕事を貰うことができました。

そして、独立したことで家の中で仕事をするようになり、大きな変化が現れたのが家族との関係です。

サラリーマン時代は仕事に忙殺されるような毎日でしたから、休日はとても動く元気はなく、家にいる間はゴロゴロして過ごすばかりでした。

妻から、

「休みぐらいはどこかにつれて行きなさいよ!」

そう言われても、私だって忙しいんだ、疲れているんだという返事しかできず、喧嘩も絶えません。
妻も大変だったのでしょう。
しかし、私も自分のことで精いっぱいで、どうして分かってくれないんだという気持ちの方が先に立っていました。

そんな状態ですから、子どもとの会話もありません。
たまに話しかけてきても、聞き流すだけで次第に子どもから話しかけられることも無くなっていました。

ところが、独立し家で設計作業を始めたことで、私の心にもゆとりが生まれます。

手の空いている時には家事を手伝い、家族との会話が自然と増えていく中で、切れかけていた家族の絆を再び取り戻すことができたのです。

何より嬉しかったのは、娘が私の仕事に興味を持ったことです。
もともと手先が器用で、絵画コンクールで賞を貰うなどしていた娘には、設計の図面が新鮮だったのでしょう。

試しにCADのソリッドワークスなどのソフトの使い方を教えてみると、若い頭でスポンジのように吸収し、面白いと楽しむ姿を見て、私も嬉しくなります。

そして、高校3年になった時、進学先として工学部の機械系を志望しました。
結果は見事に推薦合格。
面接官の前で「ものづくりをやりたい」と答えたと聞き、色々あったけれど良い形で父親の背中を見せられたのではと、これまでの苦労が消えていった瞬間でした。

合格記念には自作のパソコンのパーツ一式をプレゼントし、娘自身が組立てました。
私たち親子らしい贈り物に、娘も喜んでくれました。

そうして今、私は家族との絆を大切にしながら、自分が目標とするものづくりとは何かを考え、日々前進をしています。

金型に付随する総合的なサービスを提供していきたい。
そのためには、流動解析と、構造解析を手がけていきたいと、まだまだやりたいことが山積みです。

そして、自分の手でその目標へと向かっていくことを、楽しみながら学んでいます。

日本はものづくりの国です。
この国の繊細な技術は、財産として誇れるものだと私は常に考えています。

そして、そんな日本で金型にかかわる一員として、これからもものづくりを通し、貢献していけたらと思うのです。

もし、何かお役に立てることがあればご連絡ください。